大熊ブランド

1月 24th, 2011

3.奄美大島のかつお漁業
奄美大島におけるかつお漁業については,1950(昭25)年3月31日に刊行された鰹漁業創始五十周年記念版『奄美大島水産業沿革史』(琉球農林省大島支部水産課編・水産課長豊田茂)に詳しいので,そのまま引用する。
『奄美諸島鰹漁業の創始は1896(明29)年西古見曽津高崎の灯台建設に従事した肝属郡佐多村田尻の土持畩助ほか二名は,工事中沿岸漁業の有望であることを看取して,帰郷して同郷の鰹漁業家前田孫吉と相計って1899(明32)年の春前田氏と共に漁船を回航し西古見を根拠として出漁し,60余日間に拾斤以上の鰹9,700 余尾をつり上げ村民を驚かせた。更にその漁場も10 カイリ以内で時には餌場付近の船底に触れる様な岩礁においても漁獲したという。
これに刺激され1900(明33)年前述の帆船で技術を習得した西古見の朝虎松は同志22名をもって帆船を建造して自ら船頭となり,漁法になれない漁夫達を指導し,幾多の不便困難を克服して従事し,幸いに鰹群の来遊豊富で漁獲多くたちまち資金を回収し,なお相当の分配金を得たので各地でも鰹業が勃興し,宇検村屋鈍,吉虎次郎,鳥入坊々,実久村西阿室加藤雄等続々起業して同年において出漁船6 隻を数えるようになった。
1901(明34)年朝虎松より1 年遅れて組合を組織し「西古見の朝とら,屋鈍の吉とら」とうたわれた吉虎次郎も朝氏に劣らない名船頭であった。漁場が近くにあったため一日に三度も出漁し豊漁に豊漁を重ね一年に27万余円(当時上々白米1俵4円20銭~40銭)と莫大な利益をあげ屋鈍銀行設立の提議までするという大した景気であったが,逐次漁船も増加し漁場も遠ざかり瀬戸内方面の餌場入手も
各船喧嘩までひきおこし意の如くならず,従って餌場貸料も暴騰し,経済がつりあわないために廃業したという。
これらは一獲千金を夢見て起業した当時の漁船の軽挙さや逐次漁船の減少して来た理由などを物語るものである。
勿論,1908(明41)年までは帆船を以って操業していたのであるが,これより先内地においては1903(明36)年に静岡県水産試験場がケッチ型20㌧の船に石油発動機をつけて豆南漁場の銭州に出漁して好成績を挙げていたのに刺激されたのと,一方本諸島に於いては出漁船の増加に伴い遠ざかっていくため小型帆船操業は困難になり,これを打開するため内地に遅れること6 年にして初めて1909(明42)年に石油発動機付き漁船5 そうの建造を見,1910(明43)年には小型蒸汽船1 そうを建造するに至り,両者とも漸次増加して1913(大2)年には,吸入ガス発動機付の建造を見るに至った。
燃しながら本諸島鰹漁船経営上経費,運転,材料供給関係からして吸入発動機が優勢を占め,1921(大10)年には旧石油は影を絶ち,39隻の吸入ガス発動船の舞台となり,1924(大13)年には大型遠洋漁船2隻の建造を見,漸次増加して1925(大14)年には9隻の大型遠洋漁船と50余隻の吸入ガス発動船が出漁することになった。
当時の内地漁業界に於いても機械取付には当局の奨励もあり機械船が増加し且漁船も大型化され1919(大8)年にはディーゼル船も従業し,更に鉄船に代り,1924(大13)年には2,511 隻,1930(昭5)年には1,857隻,1938(昭13)年には更に減じて1,009隻となったが,60㌧以上の大型船は1924(大13)年に25隻,1930(昭5)年に45隻,また1938(昭13)年に343隻増加し,現在では100㌧級の大型ディーゼル鰹船の発達を見るようになった。
燃し,本諸島に於いては,船体,漁法などについて多々改善の必要に迫られていたので,1929(昭4)年大島郡水産助成事業が実現し,1935(昭10)年度から振興事業が開始された。
ここで以前優勢を極めた吸入ガス発動機を使用した動力漁船の大部分は遠洋的発展には事欠く状態にあるので,再び石油発動機に切替えることになり1937(昭12)年には吸入ガス発動船は僅か1 隻にとどまり,また雑魚を目的とする小型発動船も年々増加し旧態が改善されたのである。
鰹漁業においては餌料として本郡独特のキビナゴを使用する関係上鰹漁業の盛衰はキビナゴに左右される所まことに大きく,したがってキビナゴのみに依存することが不可能であることを覚り,1937(昭12)年春季においては遠く鹿児島山川方面に餌料(ムロ,イワシ,サバの子,俗に荒餌)を購い,あるいは一時根拠地を彼地に移したもの4 隻あり,これらのものは何れも好成績を収めた。この領域
外の遠洋漁撈は注目すべきことである。
かく,いんしんを極めた鰹業もほとんど戦災を被ったが,近年来,軍政府からの補給によって資材も追々充足しつつあり又当局においても補助助成をなして鰹業の復興に努めた結果,鰹漁船も現在(1950)20 隻(合計340.08 ㌧,1,000 馬力)を有する現状を示している。
鰹漁業者の組織は,内地漁業者のそれと異り船主又は親方,即ち漁業者(経営者)と漁夫(庸人)との区別がなく,1そうの鰹漁船を経営するには30人乃至50人の漁業者共同し,一部落1そうまたは数そうの漁業組合を組織し,漁船を建造し乗組員,製造者,餌料場担当者等その組合員より適任者を選抜して各適所に配置する方法によるもので,漁業上に関しては乗組員中何れも同等の権利義務を有
する仕組みである。
あるいは資本主において漁船を建造し,漁業者の組合に貸与し漁獲高歩合により賃貸料を得るものもあるが,これは漁業者に不利益多く,資本家においても相当の成績を挙げ得ないので近年においては漸次減少し鰹漁船においてはほとんど組合制度を採用している。』
このほか,現在では名瀬市大熊と瀬戸内町古仁屋でかつお漁業が続いている。
大熊におけるかつお漁業は,1901(明34)年,平佐栄麿,田代都喜登,吉常円らが発起して同志22人と操業したことに始まる。2 年間で4 つの組合経営体ができ,加工場もつくられ活況を呈していたが,大正にはいると極端な経営不振におちいり,1915(大4)年には全ての組合が解散に追い込まれた。原因のひとつとして資本家による搾取があった。
たとえば漁栄丸という船の場合,建造資金を名瀬の醤油製造業緒方商店(佐賀県出身)から借り,水揚げ鮮魚で償還していたのだが,高利の上に魚を安値で買い叩かれた。かつお節にしても同商店は市場価格を極秘にし,買値を据え置いたままで通した。その上漁業資材を高値で売りつけるため,上白米1 升12,3 銭の当時に組合員は一人200 円もの負債を抱えて解散せざるをえなかったという。
その後空白期間をおいて,再び大熊でかつお漁業が再開されたのは1922(大11)年,畑平六が発起人となり22 人で結成した組合,これが現在の宝勢丸組合の始まりである。
新しい組合は,それまでの経験を生かして『均等出資・平等就労・均等配分』の三原則をとることとした。組合員全員が同額の出資をし,かつ組合の仕事に従事,受け取る報酬(配当)も組合長や船長以下駆け出しの飯炊きにいたるまで,全く同額というシステムをとった。
金だけ出して漁業にはタッチせず,配当だけを受け取るといった資本家的存在はここでは許されないし,職種や経験年数による配分の格差もみとめられない。いわば一種の共産制である。
終戦後の1948(昭23)年,金紘丸組合が誕生しているが,1964(昭39)年に餌のキビナゴの極端な不漁となったのを契機に,群島内のかつお漁船の多くが廃業,脱落していった。大熊の2 組合が生き残ったのは,先に述べたような大熊独特の制度によるところ大である。
大熊にかつお漁業が始まり栄えた理由としては,天然の良港であったこと,先の組合三原則,流通上の地の利があげられる。
南にひらけた大熊港は,薩摩藩政時代黒糖の積み出し港であった。舵つき場,代官等の地名が残っていることからもうかがえる。立地条件の上では,郡内最大の消費地である名瀬をひかえ,かつ島外流通の拠点としての名瀬港に近いことも挙げられる。

以上、『鹿児島県水産技術のあゆみ』より

その後、”大熊の金鉱丸”は廃業に追い込まれる。組合三原則だけでは生き残れなかったのである。組合員の高齢化と何より燃油高騰のダメージは大きく、現在は資本家の手に渡っている。”組合”の文字は消え、いち小売り店としての営業(シビ・カツオの仕入先は古仁屋の○○丸)。宝勢丸~組合は、船の小型化とエサ船を別にする方法で乗り切り(これは現宝勢丸組合長の自慢話の一つ)、組合員の子供たちが後を継いでいる。

さて、同一価値労働同一低賃金型宝勢丸と歴史は繰り返す型金鉱丸という経営方式の異なる2店舗が隣り合っている大熊。

おもしろいでしょう。

観光客はもちろん地元でも、『鹿児島県水産技術のあゆみ』に書かれているような内容の情報で止まっているので少し加えました。

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さらにTPPに追い打ちをかけられてどうなるか。

おもしろいでしょう。

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