奄美に帰って丸4年、
徳島が4年、
その前の4年いた松山で何年目のことだったか、
最後の1年は青木さんといっしょだったけど、その時の記憶に青木さんが出てこない、、
ということはそれより前、、
そういうぐあいにカウントして、10年くらい前のこと、、
それくらい経ってしまうと-私の場合だけかもしれないけれど-その事故の発生年月日も、足場から転落して亡くなった3次下請けのボーリングオペレーターの名前も覚えていない。
現場担当者だったのだけど。。
ヘリコプターで搬送され悪くなっていく容態、病院から遠く離れた自社会議室で長時間の待機、「弱者を救わないのですか」という本社上役の発言を忌々しく感じたこと、原因とされたウインチの現場テスト、さまざまな事後処理、元請けのペナルティと自社の駆け引き等々、鮮明に記憶しているのはそういうシーンだったりする。
事故のあと、そんな私のパソコンのデスクトップ背景は、事故発生後しばらくそのままにされた足場の写真だった。でも、とても重苦しくて半年もせず背景を変えた。すこし考えたので覚えている。
そして、おそらく、それから10年(?)、また関わることになった。
ドック場の転落事故で、運輸局かうちかと悩む労働基準監督官に「えーっと、、10年くらい前・・・」と話しをしたのはその事故だった。
あの時と違うのは快方へ向かっていること。何日たっても悪い知らせが病院からとどかないこと。
事故防止の対策は、見聞きし覚えたこと全てが正しくて、実体験を通しても理にかなっていると分かるのに、結局私に出来るのは、場当たり的な事後策をこうじて、もう二度とおきてほしくないと願うだけ。だって、たとえば平成7年の、江崎灯台の足場組み立て作業員に安全帯をつけてもらうよりも格段に難しいのだから。
そんな気持ちは、きっとサガンにしか分からない。どんな書評もサガンのことを分かっていない。
かも知れない。
9月はほとんど読んでいないので、
有名なタイトルですが、初めての通読玩読。十章いや九章あたりから最終章までのリズムのよさはとても心地よく、いいな、と思いました。
転落災害よ さようなら
転落災害よ こんにちは
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転落した当組合員は、当日一人で作業をしておりましたが、事故発生時の音をきいて駆けつけて下さった近所の方、そして、その後の救急医療に携わった皆様、心から感謝いたします。また、関係機関各所には多大なご迷惑ご心配をお掛けしました、ここに深く詫び申し上げます。
私も12年ほど前に担当していた現場で負傷者が出まして、とても動揺した記憶があります。とにかく快方に向かっているということはとても喜ばしいですね。
ありがとうございます。
わたしは現場をみて助からないと思いました。でも、おかげさまで退院のめども立ち、なんの後遺症もないようです。きっと、こういうのを”奇跡”というのだと思います。
なんか、救急車の後ろをはしって和光トンネルを過ぎたとき、違う世界へ迷い込んだのではないか、そのうち最悪の現実に引き戻されるのではないか、ずーっとそんな感覚のなかにいます。